マーロン・ブランド

1924年4月3日 ネブラスカ州 オハマ生まれ 5' 10" (1.78 m)
2004年7月1日夕方 カリフォルニア州 ロサンゼルス UCLA Medical Centerにて肺線維症で死去。 
同世代の俳優に多大な影響を与えた映画史に残る名優Marlon Brando(マーロン・ブランド)は、様々な舞台や映画で迫真の演技を見せた。
若き日のBrandoは手に負えない子供として知られ、その行いを正すため10代の時に軍士官学校に入れられたが、第二次世界大戦時に彼は入隊不適合者と判断され、除隊した。
19歳の時に姉Francesの住むニューヨークに移り住み、居候した。もう1人の姉Jocelynは、1950年にLee Strasberg(リー・ストラスバーグ)が創設したアクターズ・スタジオで伝説の講師、Stella Adler(ステラ・アドラー)に師事していた。Brandoはまもなく姉と一緒に参加するようになった。
Adlerはすばやく彼の才能に気づき、"Within a year, Marlon Brando will be the best young actor in the American theater,1年以内にマーロン・ブランドアメリカ演劇界で一番の若手俳優になるでしょう。)"と発言している。
Brandoはここで、「俳優は演じる役の感情を、自分の心と経験の中から引き出して開発しなければならない」という「メソッド演技」を学び、演技技術を飛躍的に向上させた。James Dean(ジェームズ・ディーン)、Al Pacino(アル・パチーノ)、Robert De Niro(ロバート・デ・ニーロ)など数多くの俳優が彼の影響を受けた。

Brandoは1947年のブロードウエイ・ヒット"A Streetcar Named Desire(邦題:欲望という名の電車)"で舞台俳優として認められElia Kazan(エリア・カザン)が監督した同名作品の映画版に出演し(1951)、一躍スターとなった。
当時精神的問題を抱えていたVivien Leigh(ヴィヴィアン・リー)の鬼気迫る演技と共に彼の演技は評論家の激賞を受けた。彼の初めての映画"The Men(邦題:男たち)"(1950)も絶賛されたが、ブレイクしたのはこの映画である。
3年後、Brando は同監督の"On the Waterfront(邦題:波止場)"で元ボクサーの Terry Malloyを演じて初めてのアカデミー賞を得る。この映画の彼のセリフ"I coulda been a contender," は広く真似された。
"A Streetcar Named Desire(欲望という名の電車)""On the Waterfront(波止場)""The Wild One(乱暴者)"(1953) の3作品で、彼は1950年代のイコンとなった。
1960年代にやや低迷期に入るが、1970年代に彼のキャリアは鮮やかに蘇える。映画"The Godfather(邦題:ゴッドファーザー)のDon Corleone(ドン・コルレオーネ)役は、彼の最も有名な役だ。
Francis Ford Coppola(フランシス・フォード・コッポラ)監督はDon Corleone(ドン・コルレオーネ)役にBrandoだけを想定していたが、他のプロデューサー達はトラブルを恐れ、この起用をよく思わず、Coppolaは彼らの説得にかなり苦労したという。しかし撮影に入ると口に綿を詰めた彼の入魂の役作りが周囲を圧倒する結果となった。
彼はまた同監督の映画"Apocalypse Now(邦題:地獄の黙示録)"(1979)で狂った狂気のColonel Kurtzを演じた。この映画で彼は監督の要請を無視して減量しなかったため、全身のカットがない。しかしその演技力で圧倒的存在感を見せた。
その後の彼の出演映画は様々だが、アカデミー助演男優賞にノミネートされた"A Dry White Season(邦題:白く渇いた季節)"(1989)、かつての当たり役Don Corleoneをパロディ化し、初めてコメディに挑戦した"The Freshman(邦題:ドン・サバティーニ)"(1990) 、そして想像豊かなセラピストを演じた"Don Juan DeMarco(邦題:ドンファン)"(1995) など、どれもすばらしい演技を邦題:見せている。彼は尊敬され、珍重された。健康であれば"Scary Movie 2(最‘新’絶叫計画)"(2001)のオープニングにカメオ出演する予定だったと言われている。
Brandoは華やかなキャリアを築く一方、女性関係が派手で、彼の子供達は両親の愛情が足りないまま育っていった。1990年長男のChristianが腹違いの妹Cheyenneのボーイフレンド殺害で逮捕され、その後Cheyenneが首吊り自殺をするという悲劇が起こり、Brandoはショックから隠遁し、撮影現場以外の公の場にはめったに現れなくなった。
晩年は過食に走り、太りすぎたことによる心臓病に苦しんでいた。2001年4月にLAの病院に肺炎で入院してからは、まったく仕事の出来ない状態だった。